2月某日。僕はノマド的節約術の取材のために香川県のお寺へと向かいました。取材の目当ては、先日公開した香川県丸亀市で活動するプロブロガーのヨスさんとノマド的節約術主宰の松本との対談記事作成。
ですが・・・。
ヨスさんの「これってICレコーダー回してますか?」の一言で、急遽、インタビュー取材と記事作成が新たに決まりました。
お話をうかがったのは、目的地だったお寺「善照寺」の住職、三原貴嗣(みはらたかつぐ)さん。ブログ「へんもぶろぐ」を運営しており、周りからは「へんもさん」と呼ばれています。
へんもさんは住職をしながら、フットバッグというスポーツの日本チャンピオンで、ブログでも頻繁に情報発信を行っています。
「なぜ住職だけではなく、フットバッグやブログも一生懸命やる必要があるのか」
気になった筆者のくいしんは、その辺りからお話をうかがいます。その姿勢は、単に人生を楽しむという理由だけではなく、仏教(浄土真宗)の教えも関係していたのです。
へんもさんインタビュー
インタビュー日:2016年2月7日(火)
人生を完全燃焼させましょう
ヨス:
雑談していても盛り上がっているし、せっかくだからへんもさんの取材するのはどうですか?
── そうですね、やりましょうか(笑)。僕はもちろん大丈夫ですよ。
へんも:
はい。よろしくお願いします。
── じゃあ、さっそくなのですが、へんもさんがお寺の住職なのに、パフォーマンスやブログをやるのはなぜなんでしょう?
へんも:
理由はふたつあります。
ひとつは自分自身とお寺の両方にメリットになるからです。
お寺には檀家(だんか)と檀那寺(だんなじ)という江戸時代に決まった「うちはこのお寺に属する」という寺請制度の仕組みがいまだに残っています。
この仕組みによってお葬式や法事の時には自分の属しているお寺(檀那寺)に頼むということになっているんですね。
実はこの関係には契約書もないからやめたくなったらやめたっていいんですけど、みんな「こうしておかないかん」みたいな雰囲気で、慣習としてその関係が継続されています。
しかし、この関係性は数十年のうちになくなってしまうかもしれないと考えているんです。
今はこれだけインターネットも発達して、仕事場も場所を選ばなくなって、香川に住んでいた人も県外に出ちゃう人が結構いますよね。
そうなると、既存の関係性だけではお寺を維持する収益の仕組み自体が崩壊していく可能性はすごく高いです。
このお寺に葬式をしてもらわなくてもいいわとか、もっと安いところに頼もうとか、そもそも葬式なんてしなくていいわ、という考え方の人が増えたら、お寺を維持する方法がなくなってしまいます。
そうなったときに「じゃあお寺の存在価値って何?」ということが、よくわかんなくなっちゃうんですよね。
こういう現代社会だからこそ「このお寺は必要なんだ」と思っていただいた上で、新たな関係性をつくる必要があると僕は考えています。
そこで、僕がいろいろな活動をPRすることで、自分自身も楽しんで活動できるし、なおかつお寺やお坊さんに興味を持ってもらえる入り口になるのではないかと考えています。
そもそも、仏教は生き方を説いているものです。有意義な人生を送るためには「学んだほうがよいですよ」ということをずっと言ってきているんですね。
葬儀や法事だけじゃなくて、いろいろな方向から興味を持ってもらって「このお寺とは付き合っておきたい」とか「ここにいたら学びの時間になる」とか、「有意義だな」って思ってもらえるようにしたいということです。
もうひとつの理由は、生き方を見せるという意味があります。
仏教は何を言ってるかというと「人生を完全燃焼させましょう」ということなんですね。
── 人生を完全燃焼させる。
へんも:
そう。命をいただいて、人は生まれてくるわけですけど、なぜ生まれてきたのか本人はわからないじゃないですか。
この命をどうやって完全燃焼させるかっていうことが仏教の大事な教えなので、それを自分自身がやらずに人には言えないなぁと思っているんですよ。
僕は死ぬときまでに、自分の心も身体もちゃんと使い切って死にたいと思っています。
もちろん、寿命で終わるかどうかはわからないですよ。このあとどこかでコテッて死ぬかもしれない。交通事故に遭って死ぬかもわからない。
いつ来るかわからない死ぬタイミングが来たときに、完全燃焼させた人生だったというためには、そのときそのときに自分ができることをしっかりやっていく以外方法がないんです。
今、自分が持ってる能力やできることを整理して力を発揮しておきたい。
そういう生き方のお坊さんがいるお寺だったら「話を聞きたい」と思ってくれる人もいると思うんですね。
そういう生き方を見せること自体がお寺や仏教のプロモーションにもなり、読んでくれる人にもメリットがあるはずだと考えています。
なぜフットバッグやブログをやるのか
── なるほど。そういった考え方がある中で、なぜブログをやる道を選んだのでしょうか。
へんも:
ブログは同じ丸亀市に住んでいるヨスさんとの関わりの中で、やろうと思ったことです。最初は、誰かが書いてくれてたらいいなと思っていたんですよ。
「丸亀におもしろいお坊さんがいる」とか「フットバッグの日本チャンピオンがいる」とか、誰かが書いてくれてたらいいなって思ってました。
でもあるときヨスさんが「自分で書いたらいいじゃないですか」って言ってくれて。本当に「あぁ、そうか!」と思ったんです。
今までは自分でPRすることを考えていなくて、変な遠慮というか、自分で書くってちょっといやらしいんじゃないかなとか思っていたところがあったんですよね。
でも自分で書いて表現したメディアがあれば、読んで勝手にSNSでシェアしてくれたり、知ってもらうチャンスがあるんだってことがわかって。これは武器になるなと。
── 時代が移り変わってきて、インターネットが発達してきた今の時代に、というお話があったのですが、昔からネットは好きだったんですか?
へんも:
もともと関心はありました。フットバッグを最初にやり始めたときなんかも、情報が全然なかったんですよ。
── それはおいくつのときですか?
へんも:
はじめたのは20歳の頃で、インターネットがちょうどADSLから光になっていく時期です。一家に一台パソコンがあるようになってきた時代。
フットバッグを誰かにPRしようと動画を見せたくても、YouTubeもなくて、自分のホームページをつくってそこに動画を載せるしかない時代でした。
一緒に練習してた人がホームページをつくれるプログラマーの人だったから、その人からの影響もすごく大きかったです。
── フットバッグはなぜやろうと思ったんでしょう?
へんも:
東急ハンズで海外の人がやってるビデオ見て、刺激を受けたんです。このビデオがね、神戸の三宮の東急ハンズで流れてたんですよ。「Where The Ripwalk Ends」っていう。
へんも:
Eliot Piltzっていうプレイヤーがつくったフットバッグを使った動画なんですけど、めちゃくちゃかっこいい。
── この動画を東急ハンズで見て、一目惚れみたいな感じですか?
へんも:
「なんだこれは!」って衝撃を受けて、一個買って帰ったのが始まりです。みんながビデオを撮って動画をつくってサイトにアップするのがスタンダードなPR方法だったから、自分も一緒にやってた人と撮ったりとか、動画を編集したりとか。
── パッと見でめちゃくちゃハードル高そうじゃないですか。僕はすごく運動音痴なので(笑)、全然できないだろうなって思っちゃいます。へんもさんはサッカーとかやっていたんですか?
へんも:
サッカーは小学校だけですね。しかもキーパーだったんですよ。だから特に足を使うことにこだわりがあるわけじゃないんです(笑)。
── 足は関係ないんですね(笑)。
へんも:
しかも中高はバレー部でセッターでした。
フットバッグに出会った時はテレビでも見たことなかったし、まわりの人も誰もやっていなかったから、やろうって思えたんですよ。
フットバッグに夢中になりながらも祖父からお寺を継ぐことを決意する
── その時点では、実家に戻ってきてお寺の仕事をやるみたいなことは考えていたんでしょうか?
へんも:
お寺を継ぐのはもっと先だと思っていましたね。大学を卒業したら就職するか公務員試験を受けるかということを考えていました。
20歳でフットバッグをはじめて、2年後の22歳のころはフットバッグの世界大会に行きたいと思っていたので、「就職活動もやってられないな」と思っていたんです。
そんな中、一社だけ受けたら、ありがたいことに受かったのでそのまま就職しました。
面接では、世界大会に行くにあたってこういうモチベーションがあるとか、技術の積み上げ方や研究してきた道筋を話したら受かったんです。
学生にない視点だったんだろうと思うんですよね。その時の面接はかなり強かったと思います。
── 今、話を聞いていても、面接に強そうだなと想像がつきます。
へんも:
「こいつは何かやりそうだ」感を出すんですよ(笑)。
うちの場合、祖父がずっと住職をしていたんですね。父親は公務員です。
祖父が亡くなったときに父親が50歳で僕が24歳。公務員を50歳で辞めるのももったいないし、特性的に自分のほうがお寺に向いているだろうということで、父親をとばして僕が継いでお寺をすることが決まりました。
── おじいちゃんが亡くなって、亡くなるときにはもう準備してたんですか。
へんも:
新卒で就職して4月から働き始めて、まる1年やって3月に辞めさせてもらいました。その時点で祖父がだいぶ弱ってしまっていて。
体調を考えると一緒に勉強する時間がいるよねってなったんです。で、仕事を辞めたあと4月から8月までは話を聞くことができたのですが、9月の頭に祖父が亡くなりました。
あとは自分で勉強しつつ、お寺の業務もしていました。「自分しかやる人がいない」と思いましたし、やらざるを得なかったんですね。
── そうですよね。
へんも:
祖父が危篤状態になって動けないときに、1日違いでうちの檀家さんの中で亡くなった方がいて、その方が会社の会長みたいな方で。
そのご葬儀に参列する方がたくさんおられて、葬儀会館から人が溢れるし、周辺の道も渋滞してしまうような状態。
そんなものすごく大きな葬儀に、祖父はもう意識がなくて行けないから、自分が行かなきゃいけない、みたいな。それがソロのデビュー戦でした(笑)。
── はははは(笑)。
へんも:
どうすんのこれ?!って思いましたよ。もう10年住職やっていますけど、10年間で一番大きな葬式がデビュー戦。
── デビュー戦をいきなりやることになって、たとえばお経は覚えているわけですか?
へんも:
お経は本を見て、もちろんある程度はやれたんですけど。なんというかそのとき一番僕に求められてるのは「平気な顔して堂々とつとめること」なんですよ。
── 面接と一緒ですね(笑)。
へんも:
一番求められてる役割はこれだと。言い方は悪いかもしれないけど、フロントマンとしてやるべきことは、堂々とこの葬儀を荘厳な雰囲気を保ってやり切ることでした。
お経を多少間違えるとかってことよりも、この場では振る舞いが堂々していることが一番だと思って。なんとか大きな声でお経を読んで、平気な顔をして帰るっていうことをやりました。
── やりきることがまず重要だったと。
へんも:
そうですね、本当に最後のお別れですから、参って来ていただいた方のためにも式の雰囲気がビシッとしてないとダメだとは強く思いました。
そのあと家に帰ったらすぐ自分の祖父の葬式をやることになって、他のお寺さんとかもたくさん来てくれて葬儀を勤めるのに家の方もてんやわんやの状態で大変でした。
そこから一ヶ月くらいは記憶がないですね。めちゃくちゃ忙しかったというか、何やってたかよくわかんないです。本当に記憶がないんですよ。
かかってきた電話の処理と、今まで祖父が聞いてた予定のところを確認してお参りに行ったりとか。何やってたかよくわからないですけど、なんとか起こったトラブルを全部片っ端から解決するみたいな状態でした。
お寺のこともわからないし、何が正解かもわからないから、とにかく目の前にある問題を解決していくしかなかったです。
── それこそへんもさんは、「仏教の教えとは?」みたいなことを考え出したのも、おじいちゃんが亡くなられた年の4月からって感じですか。
へんも:
そうですね。そのときに僧侶の資格は持ってたけど、住職になるためのもう一個上の資格を持ってなかったんですよ。
それを取るために、2年の通信教育のプログラムをやりました。勉強しつつ、自分でも本を読んで、普段の住職の仕事も行うっていう感じでしたね。
仏教や「禅」の流行をどう感じるか
── 住職としてのお仕事についても聞いていきたいのですが、へんもさんは「真宗興正派善照寺第21代目住職」で、つまりお坊さんなわけですよね。
へんも:
そうですね。
── 今って、ちょっと仏教が流行ってませんか? 禅の特集が雑誌の表紙になったりとか。
へんも:
ありますね。広く仏教文化に興味を持っている人はたくさんいると思うんですよ。ただ、それが生活の中にどう根付くのかっていうのは、ちょっと難しい問題だなと思っています。
── 仏教的なものが世の中で流行ることは嬉しいことではありますか?
へんも:
関心を持つきっかけが増えるのはすごくいいと思うんです。ですが、それは結局、仏教のいいところを都合よく取り入れようみたいなことも多いんじゃないかなと思うこともありますね。
本来は、教えがまずあって、自分の中で咀嚼して、その教えに沿って物事を見ていくほうが仏教の道を歩むっていうことになると思うんです。
それに対して、インスタントなやり方は、興味を持つきっかけとしては素晴らしいと思いますが、そればっかりではあまり深いものにならないかもなっていう感じはしています。
── 言い方が難しいのですが、ライトな仏教ファンは、もっと仏教のことを知りたいなと思ったときに、何をすればいいですか?
へんも:
もちろん本を読むこともいいと思いますが、やっぱりお坊さんとの付き合いが必要になるかなと思います。教えって、教え単独では機能しません。人を通して伝わるものです。
いい師匠に出会って、その人の生き様みたいなところから伝わっていかないと、なかなか腑に落ちないんじゃないかなと思います。
── なるほど。すごく納得感があります。
へんも:
仏教の基本は仏・法・僧という三宝を敬うということになります。仏さま、それから法(教え)、だけじゃなくやはり僧も必要なんだと思います。
これはお坊さんということもそうですが、同じ道を歩む仲間ということも指し示します。
僧の存在が抜け落ちている中で、自分に都合のいいライトな仏教情報だけを取り入れても、学びとしては浅いということにはなるかもしれませんね。
── 素人質問なんですけど、たとえば禅をするのは「禅宗」という宗派なんですよね。
へんも:
そうですね。
── じゃあ、自分の家が浄土真宗だったら、禅をする必要はないですか?
へんも:
やったらダメというわけではないのですが、浄土真宗の教えでは、「する必要はない」んです。
禅をやりたかったらやればいいし、本人がその教えに一番共感するならそれでいいんですよ。家が浄土真宗だからといって浄土真宗を選ぶ必要はない。やってみたらいいんですよ。
── それは決まりとか教えというのは別にないんですね。好きなものを選べばいい。
へんも:
そうですね。ですが、所属寺院の住職さんと考えが違うと揉めることもありますので、その辺は相談というか注意してくださいね。
仏教は本来、もっと生活の近くにあるもの
── それで言うと、日本人は仏教徒なのにクリスマスを祝うのが意味わからん!みたいな話って一般的にあると思うのですが、それはどうお考えですか? あとは、ヨガなんかもそうですよね。
へんも:
別にいいと思いますよ。やりたいものはやったらいいんですよ。ヨガは、身体的なアプローチですよね。そこから精神面ともつながってると思うんですけど。
僕は浄土真宗の僧侶の立場だから、その立ち位置からものを言っちゃうんですけど。浄土真宗は、自分の修行を無効だと言っているんです。
いくら特別な修行をやっても、どこからともなく沸き起こってくる煩悩は完全に捨て去ることはできないでしょう、まずそのことに気づきましょう、と浄土真宗は言っているんですね。
── こういう言い方をしてよいのかわかりませんが、修行を言い訳にしたほうが簡単ってことですね。
へんも:
修行して「この課程を超えたらOK」って言われたらわかりやすいし、簡単とは言わないまでも、やったらたぶんこなすことはできるとは思うんですよ。
でも修行をこなしても、自分の中の煩悩とか欲とか、女の人と付き合いたいとか、そういう欲が沸き起こらないようにできるのかって言われたら、できないと言うのが本当だろうと思います。
とは言っても浄土真宗もわかりにくいですよね。
浄土真宗では「やれることは念仏だけです」と言われて、じゃあ「南無阿弥陀仏」って唱えたら済むのかっていうと、何が起こったのこれ?って状態じゃないですか。
── そうですよね。
へんも:
修行する場合、正しく進めばいいんでしょうが、間違った理解をすると人間って「偉く」なります。「俺はこれだけやったから偉い」って思っちゃうわけです。自分の性質がどんどん高まっていくようなイメージですね。
もちろん修行によって人格が磨かれていく方はたくさんおられるし、できる人はやったらいいんですよ。
修行をするのは欲を捨てる作業でありながら「これだけのステップを自分は踏んできた」という結果や成長の過程に対して「俺は偉いんだ」というのが残っていくと、これはよくないですよね。
浄土真宗は逆で、やればやるほど自分のダメさ加減がわかっていくというか、頭が下がっていく方向なんです。念仏をする生き方というのはどちらかというと、自己内省的な生き方といえるんですよ。
煩悩を捨てされん自分がいるんだなって、謙虚になっていく方向なんですね。
そういう点では、浄土真宗だけは他の修行をする他宗派とはかなり毛色が違うスタンスを持っています。
そういう欲をもってしか生きられないからといって卑屈になったり、落ちていくのではなく、だからこそ、生きている人生を完全燃焼させていく方向にいくんです。
浄土真宗的な生き方は、どれだけの修行をこなしたかではなくて、普通の生活の中に自分の生き方をどう捉えていくのかを見直していく方向なんです。
特別な場所に行って何かをしたらいいことがある、というのではなく、生活の中でどういう生き方をしていくのか見つめ直していくところがすごく重要なポイントになってるわけです。
── 学びが深すぎて何も質問がなくなりました(笑)。
へんも:
こうやって僕と話をしてもらったら、今までみんなが想像していた仏教とかお寺、法事というものに対して大げさに思っていたものが、もっと生活の近くにあるものだと思いませんか。
── ホントに、そう思いますね。
へんも:
直接話をしてもらうと、現代人の生き方と仏教は隔絶されたものじゃないって伝わると思うんです。
ですが、これをどうやって広く伝えるのかその方法を考えると「この人おもしろい」とか「この人と話をしたい」と思ってもらう手立てをこちらが用意するしかないなって思っています。
だからやっぱり、住職としてはもちろん、フットバッグやブログでも、僕の名前を知ってもらって、仏教やうちのお寺や、または僕自身に興味を持ってもらうことがまず重要だと思っています。
【編集後記】インタビューした感想
本文中にもありますが、とても学びの深いインタビューでした。
特にタイトルにも使わせてもらった「人生を完全燃焼させる」という言葉は、非常に納得感があり、自分の中でも腑に落ちました。
自分が普段から考えていることの中に「死ぬときに後悔したくない」という気持ちがあります。
いつだかにあるアンケート結果をウェブで見たのですが、病院で看護師さんがご高齢の方に話を聞くと、
「もっと自分の好きなことをやればよかった」とか「仕事ばかりじゃなくて、もっと家族と過ごす時間を大切にしたらよかった」とか、後悔を語る方が多いんだそうです。
今回もへんもさんにお話を聞いて、よりその気持ちが大きくなったというか、明確になりました。
誰だって、できることなら死ぬときに後悔したくない。
だからこそ、日々を一生懸命、人生を完全燃焼するつもりで生きていこうと、改めて思わされました。
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