シルク・ドゥ・ソレイユを卒業して名古屋へ移住した縄跳びパフォーマー・粕尾将一さん|前編

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ノマド的節約術がスポンサードしている縄跳びパフォーマーの粕尾将一さん。

粕尾さんは高校時代に縄跳びに出会い、高校在学中にはアジアチャンピオンになり、大学院在学中にはシルク・ドゥ・ソレイユにスカウトされて渡米します。

2016年1月に日本に帰国して名古屋に住み、活動を再開。なぜ縄跳びにのめりこんでいったのか。なぜ名古屋に住むのか。お話をうかがってきました。

粕尾将一(かすおしょういち)さんインタビュー

インタビュー日:2016年10月28日(金)

粕尾将一さん

粕尾さんの幼少期

── 縄跳びを始めるまでのストーリーを教えてください。

粕尾:
生まれは栃木なのですが、2歳までしか住んでなくて、そのあとすぐ引越して世田谷に住んでいました。

家族が転勤族だったので引越しが多かったのですが、ほとんどは東京にいた感じで。正直に言うと、学校でやるスポーツは得意ではないものも多かったんです。

── えっ、意外ですね。

粕尾:
チームの競技や、球技はあまり得意ではなくて。縄跳びもそうなんですけど、体操とか鉄棒とか、個人種目が好きなんですね。もともとは、陸上部で、長距離とかやっていました。

── 中学から陸上ですか?

粕尾:
小学生のときも世田谷区の陸上競技大会の選抜に選ばれて、持久走とか走り幅跳びをやってましたね。

中学のときは、最初は陸上部に入ったのですが、1年のときに廃部になってしまって。部員が自分ともうひとりしかいなくて、先生もいないし先輩もいない状態になってしまいました。

そのときは仕方なく、友だちがいたからというだけの理由で、卓球部に入ったんです。だから中学1年の後半から高校までは卓球部だったんですよね。

── 運動の話ばかりになってしまいそうなので聞くんですけど、勉強は得意でしたか?

粕尾:
中学のときは、比較的得意だったと思います。進学塾に行ってて、都内の進学校を目指してました。

でも結局受験に失敗してしまって、家から一番近い高校の国際コースの英語科に入って。

── ちなみに、その後アメリカに行くことになるわけじゃないですか。高校に入学する段階で、縄跳びとの出会いとは別に、世界で活躍したいとか、英語をしゃべれるようになりたいという気持ちもあったんですか。

粕尾:
全然なかったですね。将来どういうことをやりたいとか、そこまで具体的に考えてなかったです。

両親が理系だったので、ちょっと理系の勉強をやろうかなとか、建築とか面白そうだなとかふわふわ考えてたくらいでしたね。

縄跳びとの出会い

粕尾:
で、高校の授業でたまたま縄跳びがあって。みなさんも小学校でやると思うんですけど、出会い自体はそれと同じです。

うちの学校には「縄跳びカード」というのがあって、「何重跳びが何回跳べたらシールを貼ってもらえる」みたいなものなんですけど。先生がめちゃくちゃシビアで、ガチで跳べるようにならないと、補習をやらされるんですよ(笑)。

── 縄跳びの補習は珍しいですね(笑)。

粕尾:
結構レベルが高くて、二重跳びの「はやぶさ」という腕を交差して跳ぶ技とか、三重跳びも跳べないとダメだったんです。

それがたまたま高校の授業であって、「あっ、楽しいな」と思ったのが最初のきっかけですね。

── それは先生が特に縄跳びが好きな人なんですか? なんでそんなに縄跳びに厳しい授業だったんだろうと思ったのですが。

粕尾:
もともと縄跳びの起源というか、日本でこれだけ縄跳びの授業が広がったきっかけがあるんですね。

体操の太田昌秀先生という方がいるんですけど、現在の学校でやるような縄跳びの基礎を作った方がいて。

粕尾:
太田先生が、体操競技から発展させて、縄跳びの種目とか飛び方を分類されたんです。で、先生の直系の教え子の方がうちの高校に昔いたらしくて。

僕がいた学校ではなくても、太田先生の直系の弟子みたいな方がいる高校は、今でもガチで縄跳びをやっているようですね。

── へぇー、おもしろいですね。

粕尾:
体操の床ってなんとなくどういうものかわかりますか? 跳ねる床なんですけど。

── バネみたいなものが入ってるんですかね?

粕尾:
そう、スプリングが入ってるんです。だから、すごく弾むんですね。そのスプリングから着想を得て、縄跳びを跳ねる板の上でやったらいいんじゃないかって、当時の太田先生は考えて。

それで「ジャンピングパネル」というものが作られたんですけど、それがうちの高校にあったんですよ。

体育倉庫に、謎の台があって、「なんだこれは」って引っ張り出してきたら縄跳びの絵が描いてあって、縄跳び協会なんちゃら公認みたいなロゴが入ってて。

楽しそうだなってそこで跳んでいたんですけど。それもきっかけのひとつです。

── なるほど。環境が用意されていたというか、いい環境があったということがのちのご活躍につながるわけですね。

粕尾:
そうですね。そういった環境があったことは、かなり大きいと思いますね。

縄跳びにのめり込んでいった経緯

── とはいえ、みんな授業で縄跳びをやっているわけじゃないですか。その中で、粕尾さんが縄跳びにどんどんのめり込んでいったのは、なぜでしょう?

粕尾:
師匠に出会ったのが大きいです。今でもその師匠は縄跳びのプロなんですけど。師匠のホームページを、当時2001年か2002年に見つけて、サイトに動画があって、「あっ、この縄跳びカッコいいな」と思って。

いろんな縄跳びがあるんだと、そこで衝撃を受けて、その師匠のようになりたくて自分も頑張ろうかなと。師匠に憧れてのめり込んでいった感じです。

── 師匠のことをネットで知って、その後、どうやって知り合ったんでしょう?

粕尾:
見つけた直後にメールを送ったんです(笑)。

── すごい行動力ですね。

粕尾:
当時師匠は、池袋の小学校で毎週1回か2回くらい練習されてて、自宅からそこに会いに行かせてくださいってメールをしました。そこからは毎週のようにその小学校に練習をさせてもらいに行ってましたね。

── 今もブログを書かれていますけど、当時からネットを活用してたんですね。

粕尾:
そうですね。当時から、ネット好きだったと思います。

自分の母親の会社があるんですけど、中高生の頃は学校が終わって帰宅して、母親が残業してる横でずっとネットでいろいろ・・・占いとかやってました(笑)。

高校生の時に縄跳びのアジア大会で優勝

粕尾:
で、高校のときに、縄跳びの大会に出たんです。縄跳びの中でもいくつか競技が分かれていて、僕は最初、太田先生が作られた跳ねる板の上で競技を行う全日本大会に出たんです。

でも師匠がやっていたのはそれとは別の「フリースタイル」と呼ばれる種目で。

だから僕もフリースタイルの大会に出たいと思ったのですが、当時まだ全日本大会がなくて「大会に出たいなら出てもいいけど、いきなりアジア大会だよ」って言われて。

そういう経緯があったので、高校3年の時にアジア大会に出ました。

── どの国に行ったんですか?

粕尾:
タイのバンコクでした。中高生の部に出たのですが、そのアジア大会で総合優勝しました。

── すごい(笑)。それにしても縄跳びを始めてから、あっという間にアジアチャンピオンですよね?

粕尾:
そうですね(笑)。ただ、実を言うと、当時の縄跳びの業界はまだそこまで競技人口が多くなくて、中高生でやっている人がそこまで多くはなかったんです。

師匠のもとで本気でやっているのも、中高生では自分くらいでした。

── なるほど。師匠からしても、高校生からメールが来て、教えて下さいみたいなこと言われてびっくりされた感じでしょうか?

粕尾:
びっくりしたみたいですね。師匠は、今でこそみんなシルク・ドゥ・ソレイユに行っちゃったんですけど、日本の縄跳び界の中枢にいる人たちと一緒にずっと練習会をしていたような人なんです。

ただそれでも、僕からしたら5歳とか10歳とか年上の方ばかりだったので、同世代はほぼいなかったんですよ。

縄跳びでやっていこうと決めた理由

── 競技生活が2002年から2009年ということは、大学時代も縄跳びをやっていたわけですよね?

粕尾:
大学院まで行ったんですけど。その間は、大学にサークルがあるわけではないので、師匠のもとを離れて自分でやっていました。

大学がつくばだったので、師匠のいる池袋には遠くて通うのが難しくなってしまって。そこからは縄跳びのチームも自分で作って、自力で練習してました。

── 自分でチームをつくったんですね。

粕尾:
作りました。最初はもう本当に「本気の人」だけを集めてやろうと思って、自分ともうひとりで「筑波跳職」というチームを作りました。

それで全国の小学校を回ったりとかして。ちょっとずつ仲間が増えて、後輩が増えて、最終的には6人くらいになったんですけど。

── 大学のときには、「これでずっと食っていこう」みたいな決意はあったんですか?

粕尾:
そうですね。師匠に出会った高校のときにはすでに、これで食っていこうって思いました。

── でも、それだけ競技人口が少なかったらやっぱり不安だし、縄跳びで食えてる人自体たぶん少ないわけですよね。それでもこれだ!って思えたのは、どういうきっかけがあったんですか。

粕尾:
なんだろう・・・正直な話、そこまで深く考えていなかったというのが大きいです。

食っていけるかどうかという不安は、たぶん後々みんなから言われてそういう気持ちになったこともあるんですけど。実際、縄跳びの競技人口どれだけおるねんとか、全日本大会もないのにどうするんだみたいな(笑)。

でも当時は、そんなことが見えないくらいまっすぐ突き進んじゃったんです。縄跳びがが楽しくてしようがなかったですね。

縄跳びの活動を知らせるホームページを作る

粕尾:
ちょっと話が戻っちゃうんですけど、高校のときに縄跳びが楽しくてしようがなくて、初めてホームページを自分でつくったんです。

「縄跳びのパフォーマンスしてます。縄跳びのこういう競技頑張ってます。パフォーマンスの依頼があればよろしくお願いします」みたいなサイトを当時作って。

それを見た小学校の先生がいらっしゃって。そこから小学校への出演依頼っていうのが始まったんです。

── 問い合わせがあったんですか?

粕尾:
そうですね。当時高校2年生のときに初めて中野区の小学校さんから問い合わせがあって、「縄跳びのパフォーマンスをやってくれませんか」という話で。

当時はボランティアで行ったんですけど、小学生に高校2年生が縄跳びを教えにいくっていう状況でしたね。

── へぇー、すごい。高校のときにホームページをつくって、しかも問い合わせが来てたってすごいですよね。

粕尾:
そこの小学校との関係は今も続いてて、今は後輩が縄跳びを教えに行ってるんです。

小学生に縄跳びを教える粕尾さん(写真は2016年)引用元:なわとび1本で何でもできるのだ
小学生に縄跳びを教える粕尾さん(写真は2016年)引用元:なわとび1本で何でもできるのだ

高3のときに、将来の構想を考えた

── じゃあ大学のときは英語とかをやりつつ、すでにシルク・ドゥ・ソレイユに行こうと考えてたんですか?

粕尾:
当時は、頭の片隅にはありました。師匠のチームにいた方が、2003年の日本公演のキダムっていうショーがあったんですが、そこに日本人のアーティストとして出演してて、それが縄跳びのパフォーマンスとして第一号だったんですね。

── 縄跳びのアーティストとしては日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユの出演。

粕尾:
日本人では初めてでしたね。その当時は大会に出ることが第一優先だったんですけど、高校3年生のときに、将来のプランがまだなくて。

縄跳びはずっとやっていきたいけど、今後どうしていこうと考えたときに、まず現役である程度できる範囲で、取れる賞は取っておこうと思って。全日本チャンピオンやアジアチャンピオンですね。

その実績を利用して、次はシルク・ドゥ・ソレイユに行こうと。シルク・ドゥ・ソレイユにもし行けなくても、何かショービジネスに行こうっていう次のプランを考えたんです。

で、チャンピオンと、ショービジネスの実績があれば、そこからさらに、何か別の仕事につなげられるんじゃないかってプランが何となくその頃できました。

── 独立というか、今のような形・・・を、高3のときにはある程度、想像できていたわけですね。

粕尾:
当時は全然、なんとなくですけどね。

シルク・ドゥ・ソレイユに入った経緯

── すごく素朴な疑問なのですが、シルク・ドゥ・ソレイユってどうやって入るんですか?(笑)。

粕尾:
一般のお客さん向けの演技もやっていて、撮影した動画をYouTubeにアップしていたんです。シルク・ドゥ・ソレイユのホームページに「ジョブ」というページがあるんですけど。

それが、いろんなショーのアスリートやダンサーを、募集しているページなんですが、おもしろそうだなと思って自分のレジュメとプロフィール写真と動画を送ってたんですよ。

そしたら、大学2年か3年のときに、シルク・ドゥ・ソレイユの「キャスティング」と呼ばれる、いわゆるスカウトの人たちから初めてメールが来て。

── なるほど。

粕尾:
「君は縄跳びやってるみたいだけど、ショーに出演する興味はある?」みたいなメールが来て。「あります」と答えて(笑)。

── メールはもちろん英語ですよね?

粕尾:
はい、英語で。いきなり「job inquiry」ってメールが来て、なんだこれ迷惑メールかと思ったんですけど(笑)。

よくよく読んでみると「興味があるんだったら、身長と体重とプロフィール写真と、スリーサイズを教えてくれ」って言われました。

で、情報を送って。でも何回かそういう話があったんですが、流れてしまって。最終的に大学を卒業して、大学院の2年生のときに、今度は電話がかかってきました。

海外からなので「通知不能」という電話かかってきて。いきなり英語でブワーッてしゃべられて、とりあえず待ってくれとだけ伝えて。全然英語できなかったので、通訳をお願いしますみたいな話になって。

そのあと別の人からまた電話があって、結局はそこからトントン拍子で契約の話まで進みましたね。

シルク・ドゥ・ソレイユでの生活

── ちょっと細かい話になってしまうんですけど、家はどうなるんですか。寮とかですか?

粕尾:
まず最初は、本部のあるカナダのモントリオールに行くんですよ。ケベック州っていう、東海岸にあるフランス語圏の町なんですけど。

そこの町に2か月半くらい滞在して、衣装の採寸とか、メイクの練習とか、それこそショーの内容を作ったりとかして。モントリオールにいる間は、「レジデンス」と呼ばれるアーティスト寮に住ませてもらいました。

そこが道を挟んでシルク・ドゥ・ソレイユ本部の向かいにあるので、毎朝歩いてトレーニングに向かうみたいな生活でしたね。トレーニングが終わって、いざアメリカに行ってくださいとなったあとは、丸投げです。

── シルク・ドゥ・ソレイユって、街を転々とするんですか?

粕尾:
自分たちはしてなかったですね。僕はその場所でしかやらない、常設ショーに所属していました。

── じゃあ、5年間ずっと一箇所で演技し続けるということですか?

粕尾:
そうなんですよ。ずっと一箇所です。

── ショーは変わったりするんですか?

粕尾:
ずっと一緒。ひたすら同じショーです。とはいえ、たまーに、振り付けや構成をマイナーチェンジするんですけど。全体の流れやコンセプトは、変わらないですね。

── 1日何回で、月に何回くらいやるんですか。

粕尾:
1日2回で、週10回ですね。平均すると月40回。

── へぇー、めちゃくちゃ大変ですね。それは、週2回休みがあるんですか?

粕尾:
ですね。日曜日と月曜日は休みでした。

── えっ、日曜日がお休みなんですか?

粕尾:
不思議ですよね。そのショーがあった場所は、ディズニーワールドの敷地の中だったんです。メインターゲットがディズニーの観光客なんですよ。

で、オーランド空港から発着する飛行機が、日曜日の朝発っていうのがすごい多いらしくて。その関係で、土曜日の夜までディズニーにいて、朝一で帰っちゃう人がほとんどで、日曜日を休みにしたみたいですね。

── なるほど。

粕尾:
なので、他の常設ショーや、日本のショーでも、日曜日休みってほとんどないはずで、たぶんうちぐらいだと思いますね。

シルク・ドゥ・ソレイユから独立にいたるまで

── そして、独立して今に至るわけですよね。

粕尾:
契約が終わってしまって、今に至ります。

── 卒業しますということではなくて、契約が終了ですという話になるものなんですか?

粕尾:
ちょっとシビアな話になるんですけど、ショーの内容を変えることになったときに、自分たちの「スキッピングロープ」という縄跳びのアクトを別のアクトに入れ替えますという話になって。

つまり、自分が出ていたショーから、そもそも縄跳び自体がなくなってしまったんですよ。

── はー、なるほど。

去年(2015年)の8月末くらいにそういう話があって。「今年いっぱい、12月31日でスキッピングロープがなくなります。来年からは別のアクトが入ります」と伝えられました。

── 「縄跳びのあるこっちのショーに行かない?」とか、自分で探すという手段はないんですか?

粕尾:
それもできるんですけど、これまたシビアな話で、シルク・ドゥ・ソレイユの中で縄跳びをやってるショーが、もうないんですよ。

── えっ! シルク・ドゥ・ソレイユのショーの中で、ないわけですね。

粕尾:
僕らがやっていたアクトとは別で、「ダブルダッチ」っていう二本の縄跳びで行うアクトはあるんですけど、いわゆる普通の縄跳びはないんですよね。

まぁでも、ショーがなくなるのであれば仕方がないので、スパッと辞めて、悔いもなく、今年の1月に帰ってきました。

日本に帰国、なぜ名古屋に?

── 2016年になって、どこに帰ってきたんですか?

粕尾:
ここ、名古屋ですね。

── なぜ名古屋だったんでしょうか?

粕尾:
自分の妻の実家が名古屋でして。本当に妻の実家がすぐ近く(名古屋駅周辺)なんですよ。

子供がいるんですが、どうしても一週間不在にするとか、ずっと家に帰れない仕事なんです。そういうときに、実家のお父さんお母さんに助けてもらえたりとか、お姉さんも近くに住んでいるので、いとこ同士で遊んだりとか。

そういうことができたほうが、自分の妻も気持ち的に楽かなっていうところがまずありますね。

もうひとつは、東京や大阪ってパフォーマーが多いんですよ。あとは、アイドル、歌手、お笑いの方も多いですよね。

そういうステージをやる方々がそれぞれ関東にも関西にも多いんです。そうすると、ステージの取り合いになって、バッティングしていくんですよ。

── なるほどー。そういった方々がライバルなんですね。

粕尾:
周りのパフォーマーには「東京で仕事していくのは大変だぞ」って言っていて。そういう意味で、名古屋はライバルが少ないんです。だから、ここしかないなって思って。

ちなみに、東京はめちゃくちゃ難しいんですよ。なぜなら、東京には、イオンがないんですよ。

── 商業施設が多くないと、難しいってことですね。

粕尾:
だから、イベントやってくれる場所の絶対数が、東京よりも東海のほうが多いんじゃないかって考えているんです。東海地区なら、ある程度ネームバリューと肩書きがあれば、一人勝ちできるかなって思って、名古屋に来ました。

何気に東京も大阪も近いので、動きやすいですしね(笑)。

粕尾将一さん2

後編のノマド的節約術松本との対談記事へ続きます。

粕尾さんのブログ「なわとび1本で何でもできるのだ」はこちら

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この記事を書いた人

くいしん

編集者。株式会社Wasei。灯台もと暮らし編集部。1985年、神奈川県小田原市生まれ。主に地域、暮らし、メディア、音楽、生き方、働き方について執筆、編集。

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