「学生時代に株で大儲けしたけど仕事は全然できなかった」大石あき

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神奈川県大磯町でウェブ制作やウェブコンテンツ制作を行う株式会社ヴァルゴスを経営する大石あきさん。

学生時代に株式投資を行い、数年は生活費に困らないほどのお金を稼いだそうです。

しかしご本人は、それがきっかけでうまく社会に馴染めなかったと言います。

高校を中退して、大学に入り直し、映画業界に進んだ大石さんは、地元・大磯に戻って会社をつくり、サービスを立ち上げるのですが、事業は途中で頓挫してしまいます。

経営者だった祖父の思いを継ぎ、「自分だけじゃなくて社員も幸せにする会社」をつくりたいと語る大石さん。

大石さんの仕事場であるコワーキングスペース、「OISO 1668」のブルースペースでお話をうかがいました。

大石さんのオフィス

大石あきさんインタビュー

インタビュー日:2017年9月22日(金)

大石さん1

高校を中退して、大学で文学を学ぶ

── 最初に自己紹介をお願いします。

大石:
生まれは神奈川県大磯町です。大磯で育ってきて、高校は中退したんですよ。当時は授業を受けていて、「これがそんなに意味のあることなんだろうか」って思っちゃって(笑)。

教科書に載っていることをただ言ってるだけだったら教科書を読めば済むのに、学校ってすごい効率悪いよねって思っていました。今思えば、完全に中二病です(笑)。

本を読むのが好きだったので、その後2浪して、大学の文学部に入りました。

── 高校を中退するのって、多くの人がする選択ではないじゃないですか。なかなか尖ってますよね。

大石:
そうですね、生意気だったんです(笑)。「高校なんか行かなくても私はできる」って思ってました。

社会に出てから上下関係で苦労したので、今から思うと、ちゃんと部活の先輩後輩関係を経験しているほうがいいな、羨ましいなって思います。

でも大学はすごく行きたくて。もっと難しいことを学べば、社会や世界の真理を知れるんじゃないかって思って、フランス文学科に入りました。

でも現代フランス思想を読んでもまったくわからなかったです。「こんなレベルの高いこと私にはできない」と思って、勉強は諦めました。

大石さん2

大学で映画監督を志すと同時に、株を買って大当たり

大石:
そのあと、大学で映画の授業があったんです。その授業に是枝監督が来てくださって、みんな同じ脚本で、1分間で1カットの作品をつくりましょう、という授業をやったんですね。

(※映画監督の是枝裕和さん。『奇跡』『そして父になる』『海街diary』などの作品で有名)

そしたら2年連続で、「この子が一番映画的だね」と言ってくださって。

── ええー、すごいですね!

大石:
是枝監督にそんなことを言われたら、「私、映画界いくしかないっしょ!」と思うじゃないですか。それで、ちょっといい気になっちゃって。

同時にその頃、大学3年生のときに池袋に引っ越したんですけど、マンションの近くにGEOがあったんですよ。

── レンタルビデオの。

大石:
そうです。映画が好きなのでGEOでよくビデオを借りていて。父や祖父が株式投資をやってたんですけど、祖父の家に遊びに行くのが好きだったんです。

で、祖父の家に会社四季報っていう、株式投資の人用の会社の情報が載ってる分厚い本があったんですよ。

他にやることないからそれをずっと読んでました。あるとき、株式優待のページみたいなのを見てたら、GEOの株を買うと、50%オフになるって書いてあって。

当時の価格だと、100円が50円になったりとか。そうなったら借り放題じゃん!と思って、祖父に相談して、株を買いました。

同じ頃に、株式分割が流行っていて、一番有名なのはライブドアが100分割したことです。当時、ニュースで大々的に流れていたくらい。

GEOもガンガン株式を分割していて、株を買って、フランスに旅行に行って、戻ってきたら旅行で使った金額より大きいお金が自分のところに舞い込んできました。

── ええー!

大石:
そんなに株に強い興味があったわけじゃないのに、たまたま当てちゃったんです。その後一年くらいで、あと何年間かは暮らしていけるくらいのお金になっちゃって。

── すごいですね。

大石:
そうなると、働かないんですよね。ちょうど不景気で、就職も氷河期で2浪してますし、「どうせ就活したって受かるわけない」って思って、自主映画でも撮って卒業したら映画監督を目指そうかなって考えたんです。

「どうせ株で生活できるし」って思ってました(笑)。

大石さん3

映画の道に進む

大石:
大学を卒業して、でも何をやったらいいかわからなかったので、映画の専門学校にまた一年通って、自主映画をつくるのを手伝ったりとかしてました。

そのうちに、27歳の頃、プロデューサーさんと監督さんが「うちの現場来ない?」って誘ってくれるようになりました。そのツテで、助監督になれました。

それまで、ろくに働いたこともなくて、上下関係もわからない。仕事の仕方も全然わからなくて。口の利き方もわかってないし。本当に、仕事ができない人だったんですね。

プロデューサーさんや監督さんは、逆に「面白いね」って言ってくれるんですけど、現場にいる人からしたら、口の利き方もわかってないし、仕事もできないし、そんな人が気に入られていたらいやじゃないですか(笑)。

そこで初めて、ちゃんと就職したり、ちゃんと学校に行ったりしたほうがよかったかなって思いました。それで、助監督の仕事は1、2年で辞めてしまいました。

大石さん4

大磯に戻って「普通の女の子」になることを決意

── 映画の仕事を辞めたあとはそのまま東京に住んでたんですか?

大石:
途中で一時期大磯に戻ったり、また東京に住んだり。でも結局大磯に戻ることにしました。

大磯に戻ったのは、これは仕事を辞めた理由でもあるんですけど。子どもを産んで、いわゆる普通の女の子として子育てする生活をしたいと思ったんです。

だから当時都内でお付き合いしていた人とも別れて、大磯に引越しました。

子どもが欲しかったので婚活をしながらアルバイトをすればいいかと思っていて。それが30歳になる手前くらいです。

助監督の仕事は辞めましたが、知り合いのプロデューサーさんからシナリオを書く仕事をもたらったりして。俳優さんに配る用の企画段階のシナリオを書いたりしてました。

その頃、友だちに「32までに結婚して、1、2年で子づくりをして、34くらいまでに産むべきだ」みたいなことを言われて、「そうだよねぇ」って思いまして(笑)。

そんなことをしていたら、別れた恋人が大磯まで追いかけてきてくれたんです。

最初は「いやなんだけど」って伝えてたんですけど、よくよく考えたら、そんなに好きになってくれるんだったら、まぁ、いいかなって思って結婚しました。

── えっ、東京にいたときの恋人ですよね。

大石:
そうですね。結婚しちゃった(笑)。

大石さん3

── それが今の旦那さんですか?

大石:
そうなんですよ。そして私自身は普通の女の子になりたいということで、不動産会社のコールセンターで働き始めました。

物件の天井から水漏れするからなんとかしてくれとか、そういうクレームを処理する仕事だったんですけど。電話で怒鳴られたりするし、最初は結構きつかったです。

でもこの仕事で、仕事をすることの大変さみたいなものをやっと覚えることができました。

映画の仕事をしていた頃は監督に何かやってくれと言われても「それはできません」とか言ってて。それを涼しい顔をして他の上司がさっとやってくれたりとか。

すごく恥ずかしい話で、「私、超ダサいなぁ」って自分で思ってました。

でもコールセンターの仕事で、お客さんの要望と、会社のできる事との落とし所を見つけることが、私の仕事なんだって気づけました。

今も「落とし所を見つける」という視点で仕事しています。「その予算ならこのWebサービスを利用したほうがいい」「その納期なら、新たに作らないでこのコンテンツを利用しよう」とか。

コールセンターでの仕事が軌道に乗ったあるとき上司が、私が映画の仕事をやっていたのを知っていたので「写真とか撮れるよね?」という話になったんですね。

「ホームページとかできるんじゃない? ブログとか書けばいいじゃん。写真も撮ってよ」と言われて、急にホームページ担当にさせられたんです。

なんの知識もないところからだんだんウェブのことを覚えていったんですけど、制作会社さんに依頼するにも、当時は基礎的なことすら全然わかってなかったので「こうやってください」と伝えることすら、難しくて。

簡単なことだったら自分でやれたほうがいいなと思って勉強していくうちにウェブのことを好きになっていって、その会社を辞めて、ウェブの勉強をするために職業訓練校に通うことにしました。

子どもができて会社を立ち上げるもうまくいかなかった

── なるほど。それが今のお仕事につながっていくんですね。

大石:
そうなんですけど、職業訓練校に受かったとほとんど同じ時期に妊娠しました。

── じゃあ職業訓練校には通わなかったんですか?

大石:
妊娠中に通いました。でも、すごく失礼だったと思います。就職をちゃんと決めることが職業訓練の成果になるのに、就職しなかったから。

職業訓練が終わる頃には、妊娠8ヶ月で、一般の人だと産休に入るくらいの時期になってました。

そのあと子どもを産んだんですけど、夫が当時、ブラック企業で働いていて給料が少なかったっていうのもあって、産後3ヶ月くらいからは、簡単なウェブ制作やチラシ制作の仕事をやるようになっていました。

── そのときはまだ会社は立ち上げてない段階ですか?

大石:
そうですね。小さな子どももいるので、ゆるゆると仕事をしていました。

そうしているうちに、ホームページをつくらせてもらってる友だちが、産後のお母さんの骨盤ケアをやっていて。私もやってもらったらすごくよくて。

サイトを私が運営して、彼女が骨盤ケアをやりに出張するのをサービスにしたらどうかなと提案したら、「いいね!」という話になりました。

そのサービスをやるタイミングで、彼女の後輩も手伝ってくれることになったし、会社組織にしたほうがいいよねって話になり、法人化したのが2015年7月です。

── じゃあ子育て真っ只中に会社をつくって代表になるわけですね。

大石:
そうなんですよ。だから、全然思うようにはできなくて。ここ数年の話ですけど、今でも後悔してますね。

子どもが熱を出したら仕事にならないし。そうやって半年くらいやっていたら、資金も尽きちゃって。一緒にやってる友だちも「楽しくない」と言い始めて。当時はキツくて、経済的にも、人生で一番大変でした。

それで骨盤ケアのサービスはクローズしました。

祖父は「マ・マー スパゲティ」をつくった人

── でも映画業界に入ったり、会社を立ち上げたり、チャレンジ精神がすごいなって思いました。

大石:
会社をつくるにしてももっと勉強すればよかったんですけど(笑)。投資をしていた祖父というのが経営者で、パスタを日本で初めて製造した人なんです。「マ・マー スパゲティ」なんですけど。

── えっ、すごいですね。

大石:
イタリアから機械を輸入して、パスタの文化を広げるために、料理研究家にメニューを考案してもらったりとか、レストランをつくったり。そういう仕事の話を聞くのがすごく好きでした。

だから、自分も将来はおじいちゃんみたいに、仕事で社会をちょっと変えるとか、「これは自分がやった仕事なんだよ」って自分がおばあちゃんになったときに言えたらいいなという思いはありました。

大石さん6

理想の働き方を追求できる会社をつくりたい

── ここから5年10年の目標というか、理想の生活ってありますか。

大石:
同じような考えをもった人とチームを組んで仕事をしたいです。

たとえば、部長職で月60万もらえる仕事があるけどそれは深夜まで残業しなきゃいけない。だったら、20万ずつ3人で60万の仕事をできないのかっていう事をコールセンターにいるときから思っていました。

特に地方だと、子育て中の女性はいくら能力があっても事務職で時給1000円のパートしかできないのが不満で。

週3日しか働けなくっても、やりがいのある仕事をできるようにしたい。価値観を共有できる人たちとチームをつくって、それぞれの理想の働き方を追求できるような会社をつくりたいなって思ってますね。

祖父の話を聞いていいなと思ったのが、社員の方に住宅補助を出してあげて、「うちの社員はみんな横浜に家を建てられたんだ」って自慢していたんですね。

自分だけじゃなくて、社員も幸せにする、そういう会社をつくりたいなって思っています。

【編集後記】インタビューした感想

大石さんが去ったあと

「お金さえあれば・・・」という考え方はよくあります。お金があればもっと自由になれる。お金があればもっと幸せになれる。お金があればこれができる──。

もちろんお金さえあれば叶えられる夢もあるかもしれないし、できることも広がるかもしれません。

ただ、お金では解決できないこともあります。

大石さんは、学生時代から一般的には得られないような「数年分の生活費になるほどのお金」を持ったことにより、社会に出て苦労されたとのことでした。

でもだからこそ、今はまだ道の途中でありながらも、たしかな未来に向かって一歩一歩着実に進んでいるような強さを感じられました。

「若いうちから大金を手にする」ということは、一概に正しい・間違っていると言えることではありませんが、その経験を踏まえて、自分自身のことを考えて糧にしていくことが大切なんじゃないかなと思いました。

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この記事を書いた人

くいしん

フリーの編集・ライター・PR。「灯台もと暮らし」編集部。1985年、神奈川県小田原市生まれ。高校卒業後、レコード店員、音楽雑誌編集者、webディレクター、web編集者を経て、個人事業主に。主にカルチャー、音楽、生き方、働き方、ローカル、暮らし、メディアについて執筆。

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