「ノマド的節約術」が冠するノマドという言葉は、直訳すると「遊牧民」。
最近、遊牧民のように多拠点で生活することが、魅力的に語られることが増えてきました。
さらに、「ADDress(アドレス)」や「HafH(ハフ)」など、多拠点生活をするためのサービスも続々と登場。
その一方で、アート業界では数十年前から多拠点生活をする流れがありました。
それがアーティスト・イン・レジデンス=滞在制作です。
国内でも数多くのアート施設やプロジェクトが国内外からアーティストを招聘して、現地でのアート制作を依頼するようなプログラムがあります。
実際にノマド的な滞在制作をしているアーティストは、どんな風に生活しているのか。
そもそも、アーティストはどのように生計を立てているのでしょうか?
気になった私にアート業界の状況を教えてくれたのが、美術家の中﨑透(なかざき とおる)さん。
中﨑さんは、個人作家としても、アートコレクティブユニット「Nadegata Instant Party」としても、国内外で20年近く、滞在制作を続けています。
「滞在制作は、作品輸送費の節約や、その土地の人達との関係性は魅力があります。だけど正直お金になりにくい場合が多いです。体力もつかう。だけどそこにしかないことがあるから、続けてこれている」と語る中﨑さん。
そこにしかない滞在制作の魅力とは?
アート業界で働くことについて、中﨑さんに聞いてきました。
中﨑透(なかざき とおる)さんインタビュー
絵が描きたくて美大に行って、美大に行ったから作家になった
── 中﨑さんは美術家ですよね。画家や芸術家ではなく、美術家と名乗るのは、なぜでしょうか。
中﨑:
はい、肩書きを聞かれると美術家と名乗ることが多いです。詳しく言うと現代美術の分野で活動する現代美術家だったりします。
大学は油絵学科出身ですが、表現手法が絵だけではなく、空間を使ったインスタレーション作品や看板をモチーフにした作品、ときには演劇、映像など、媒体が多岐にわたるのでそんな言い方をしています。
── なぜ、美術家になったのか、経緯を教えてください。
中﨑:
最初は図工が得意、って自覚したところから始まりましたね。
僕が小学生だった頃は、キン肉マンとかドラゴンボールが流行っていました。
真似して、ノートにたくさん描くうちに「わりと上手じゃん」とか友達に言われちゃったりして、「そう・・・かな?」みたいに(笑)。
そういうこともあって、描くことにあまり抵抗がなくて、ずっと続けていただけなんですけどね。
そして高校時代に、「絵描きになりたいな」って、美大受験してみようかなと美術予備校で油絵の勉強を高3から始めて、2浪して武蔵野美術大学の油絵学科に入学しました。
中﨑:
油絵を勉強してるうちに、美術ってなんだろうと考えるようになって、必ずしも絵じゃなくてもいいのかなって思うようになりました。
その後、絵や作品の外側や枠組みというか、その作品の置かれる状況や周りとの関係のようなものに興味が向いていき、だんだん絵描きというより、美術作家になることをシンプルに突きつめてきて、今に至ります。
── 大学を選ぶ際、美術で食べていく決意があったんでしょうか。
中﨑:
大学受験で工学部を目指す人は、その先にエンジニアだったりその先にあるキャリアをイメージしますよね。
僕の場合は美大の油絵学科だったから、そのまま「画家」や「美術家」という仕事をイメージしたというのはあります。
一生懸命続けていればふつうに食べていけるという職業ではないけれども、卒業して、すぐ次の展覧会の予定があったので「やってみよう!」と始めたわけです。
たとえば、「画家になる/美術家になる」みたいな言葉って単純ではあるけど、美大に入学した20歳と、大学院を出た25歳くらいと、30歳と、その後、10年続けてきた40歳を過ぎた今と、だいぶ重みは変わってきていますけど、その都度踏ん張りながら、ぎりぎり続けていますね。
── ぎりぎりとおっしゃいますが、美術家さんのキャッシュフローが気になります。副業をしたりするのでしょうか。
中﨑:
僕の場合はあまりしていないんですよね。両親が共働きで一人っ子だったのは大きくて、だいぶサポートもしてもらったし、今も実家暮らしだったり。
30歳まで博士課程に在学していて、当時も高校の非常勤講師をしていたり、それ以降も数年間ほど大学の非常勤講師をしましたけど。
今の感じは、美術館や行政主催の芸術祭などの展覧会のフィー(謝金)、少量の作品販売、ワークショップ、レクチャーなどの講演。
あと、自分のスペースの運営も長くしているので、たまに外部の作家の企画ディレクションをしたり。
一方、自分のスペースの企画や、オルタナティブスペースでの展示は持ち出し、つまりノーギャラで材料費自己負担といった場合も多々あったり、そのような感じでいろいろなことを仕事にして掛け持ちしています。
だましだまし続けているうちに、美術家としてぼちぼち仕事がまわるようになってきました。と言いつつ、今も時折、親に援助してもらうこともあります。
── 立場的には個人事業主になるんでしょうか?
中﨑:
そうですね。個人事業主としてやっています。
実家に暮らして、制作費やその他いろいろを経費として計上して、生活はわりとギリギリという感じです。
ただ、今の僕のキャッシュフローだと、東京で家族を持って、家を借りて住むというライフスタイルは難しいかなぁ。
── なるほど。
中﨑:
僕がやっている、多くの人が関わるプロジェクトベースの作品制作仕事は、視点を替えると「まちづくりのコンサルティング」と近い要素があります。
街のにぎわいをつくる手段としてアートを捉え、依頼主から仕事を受けたり。
── スキルとして「まちづくりコンサルティング」を持っているなら、そのスキルを使って仕事することも可能かと思うのですが。
中﨑:
うーん。なんでだろう、街のにぎわいをつくることが目的になってしまうとつまらないからかな。
実質、コンサルティングのオーダーを受けているような状況はたまにあります。
ある意味、共犯になれるような信頼関係が築けるようなところとしか仕事をしていないかもしれません。
僕はあくまで現代美術という分野のプレイヤー。それはとことん自由な何かではないんです。
歴史や批評、マーケティング、そういったものを意識した上で、自分の状況や意思みたいなものを掛け合わせて作品をつくっていく。そういうところが面白かったりしてます。
なので作品制作ではなくて、コンサルティングをすることが目的化したらつまらないと思っている部分がありますね。
── なぜ、つまらないと感じるんでしょうか。
中﨑:
コンサルティングをする方向性に進みたいなら、そもそも美術家というリスキーな職業は選ばないですよね。
── 美術家をリスキーと言う理由はなんですか。
中﨑:
20年近く日本で美術の業界でやってきた経験からですね。
たとえば普通の大学や大学院を出た場合、大多数の人は、その分野で就職したり、翌年からその仕事で生きていけたりしますよね。
美大の油絵や彫刻といったファインアートと呼ばれる学科の場合、大学院を出た30代の人の中でも、その専門の作品制作だけで食べていける人はたぶん一割もいないと思います。
たとえば、新卒でアルバイトで8時間・週5日を1ヶ月続けると、14~5万円くらいはもらえますよね。
それに比べると、美術業界ではスペシャリストで、県をまたいででも「あなたが必要です」と呼ばれる状況、しかもよく知られた美術施設やプログラムであっても、実質の月額がそれに満たないようなケースもザラにあったりします。
── そうなんですね・・・。
中﨑:
正直、厳しいです。それでもやりたい部分があるから、続けてこれているかと思います。
美術家を目指した最初からの欲望で言ったら、作品を作りたい。
自分が作りあげた作品も見たいし、多くの誰かに作品を見せたい。
その本質的な欲求があるから、その思いがなるべくそのまま食い扶持になるに越したことはないと考えています。
アーティストが滞在制作する理由
── 実家を拠点としているとのことですが、具体的にはどのように美術家活動をしているのですか。
中﨑:
実は拠点である茨城県の水戸にはたぶん半分もいません。
滞在制作が多く、現地に数週間とか滞在して制作することもあります。
── なぜ滞在制作をするんでしょうか。
中﨑:
アトリエ、制作場所がないから、ですかね。
東京に住んでいた20代の頃、家とは別にアトリエとして倉庫を4人ぐらいの作家でシェアして借りていた時期がありました。
2ヶ所も借りているのに、滞在制作で1ヶ月くらい留守だった、みたいなことが何度かあり「この維持費、もったいなくないか」と。
実家を拠点にして道具を持って身一つで現場に行く、くらいの方がいいかなと考えるようになりました。
大きいものを作るなら、そのサイズの作品の作れる制作場所を維持しつつ、完成した作品を持っていくより、現地で材料を買って作ったほうが安い、という理由もあります。
それと、そもそも現代美術というジャンルの仕事が地元にほぼないです。
だから外でいろんな場所で仕事をするというのも大きいですね。
1つの地方都市で考えたら、ひとりの作家が1年を通して食べられるような仕事はないですから。
だから、いろいろなところを転々としながらじゃないとできないという。
── そういう理由もあるんですね。
中﨑:
滞在制作つまりアーティスト・イン・レジデンス(以下:レジデンス)というプログラムは海外では以前から盛んでした。日本では90年代くらいから増えています。
昔の日本で例えるなら旅の絵描きがお金持ちの家にしばらく逗留して、お礼がてら襖なんかに一筆残していく、というようなものに近いかもしれません。
住居と制作場所が用意され、一定期間滞在して制作するプログラムのことで、必ずしも展覧会などで作品の発表を目的にしない場合もあります。
プログラムによっては制作費やギャランティも出ますし、そのような制作形態が美術業界にあります。
僕の場合は、そういったレジデンスのプログラムに参加することもあれば、普段の美術館の展覧会や芸術祭なんかの時も内容や予算を考慮しつつ滞在場所を確保して現地制作をすることが結構あります。
当時のお金がない中で、滞在制作を中心にした僕のスタイルは最適化した結果ですね。
一方で、その土地に滞在して丁寧に地域のリサーチをする中で、歴史や状況、そこに暮らす人達に出会い、影響を受けて、作品が出来上がっていく過程が単純に楽しい。
だから続いてしまっている面はありますね。
あと、音楽家の大友良英さんや遠藤ミチロウさんたちが中心で始まった「プロジェクトFUKUSHIMA!」に関わっているんですけど。
彼らと接して、滞在制作ってミュージシャンのツアーの回り方みたいだな、と思いました。
彼らは一晩で次の街に回っていきますよね。美術家の場合は、その期間が1週間とか10日ごとくらいで回っているような感じです。
── これからも滞在制作を続けていくんですか?
中﨑:
そこは悩ましいです。40代になって、体力的にちょっときつくなってきましたから。
少しずつ、拠点で制作して展覧会場に持っていく、スタンダードな仕事の仕方に移行できるといいなと思ってはいますが、なかなか思い通りにはできていませんね。
現地で作品を作って解体してというやり方には、作品が残らないというデメリットがあって。
当然、販売する作品がないということだから、お金にならないということでもありますからね。
制作した作品が展覧会を経て、もう一度マーケットで流通する。
画家とかであれば普通のことかもしれないけれども、そういう部分を素通りしてきてしまって今更ながらにどうしようかと。
今の制作スパンの中にそういう仕組みが作れると、正直だいぶ経済的には落ち着くんじゃないかと妄想しています。
とは言いながら、体と道具だけで現地に行って、その土地でいろいろな人たちと関わって作っていく形はとても魅力的なので、悩みつつも続けていきたいです。
作りたいもの
── 中﨑さんが美術家として作り上げたいものって何かあるんでしょうか。
中﨑:
大学の卒業制作以来、看板をモチーフとした作品シリーズを制作していて、かれこれ15年以上、ライフワーク的に継続して作り続けています。
この作品は、大手有名企業の架空の看板で、依頼主の思い通りにならない特殊な契約書を前提につくられています。2002年の作品です。
本来、あるはずのないズレた看板を目の前にしたとき、それぞれの企業名からオリジナルの企業イメージを頭に思い浮かべずにはいられなくないですか。
日々の生活において、どれだけのそういったイメージが私たちの中に無条件に流れ込んでいるかを、提示したくて作りました。
── たしかに、見たときに混乱が生じますね。知っているデザインとは違う、と。
中﨑:
たとえば、缶ビールの場合、中身とラベルのデザインの両方があって商品として成立してますよね。
実体とイメージがある種、別物であり、同一でもあり。そのつながりが結び付いている間に存在してるものを疑う仕事として、看板という作品を作っていたりします。
一人の人間がいたとして、自分が思ってる自分像と周りから見た自分像があったとします。
「どっちが本当の自分でしょう?」という問いがあったとして、その答えはたぶん「両方」なのかなって。
そうなると、その間のところにある存在が気になってしまって。
この作品シリーズはイメージと実体の関係みたいなことをずっと考え続けていて生まれたものです。
他の作品もその延長でいろいろ気になることが増えていった結果生まれたものなので、これからも問いかけを続けていきたいですね。
今後は、自分が心地よく作りつつ、ほどよく作品を見てもらえて、美術家としてちゃんと食えて生きていけたら、いいかなと思っていますが・・・なかなか大変ですね。
【編集後記】インタビューを終えて
滞在制作はアート業界での出稼ぎかつ、自分の作品を見せる全国ツアーのようなもの。
ただ、滞在制作をし続けるためには、体力や資材のリソース・・・そして何より、生活がまわるだけのお金が必要。
「自分が作りあげた作品も見たいし、世界に作品を見せたい。その思いがなるべくそのまま食い扶持になるに越したことはない」
美術家としての本質的な欲求を語る中﨑さん。
美術家のようなクリエイターが、日本で活動し続けるための仕組みはどうしたら作れるのだろうか・・・?
そんな宿題を出されたような取材でした。